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ミニ・トークセッション
「情報教育の授業研究のポイントはどこにあるか」(木原・山内・堀田)
  • 話題にしたいこと
    • 「評価」について
    • 評価すべきこと
    • 評価方法
    • 学校カリキュラムへ

 

  • 「研究仕立て」にする方法
    • 研究目標の設定
    • 研究のウリの自覚
    • 学会発表に持っていくために

堀田:
フロアから言いたいことがあればぜひ。話題にしたいことはふたつ。そうですね,こういうことについてディスカッションしたいと思います。フロアから質問があれば言ってください。実践の内容。すなわり評価をするというけれど,一体評価すべきことは何で,どうするべきで,学校カリキュラムや,子供の成長とどう関係してくるか。総合的な学習の時間や情報教育との関わり。実践を研究仕立てにするときどう目標を設定し,ウリを出していけばいいのか,という二つのことがある。内容論と研究の仕方と二つの議論をしたいと思います。

最初に上の方から,話題にしたいこと。

藤原:
評価なんでが,上から2番目の評価方法なんてところを聞いていました。私も自己評価チェックシートというのを作って,資料で言うと國香先生の資料の総合的な学習の時間のチェックリスト,のような活動評価というようなものを私が考えて,それを子供たちに分かるようにおろして,子供たちに実際に示すと,それを子供たちに評価をさせる方法をとっている。授業の最初にシートを見せる。しかし,それが自己評価として成り立っていたのか。評価の方法について教えていただきたい。

今回教師がおさえる評価があると思うんですが,教師がする評価ではなく,子供に評価させたい。評価の観点を持たせたいと思う。

木原:
ま,たとえばですけれども,金井先生がつけたい力を伝えたんですよ,と言われたんですが,これそのものは具体的な学習活動というかプロジェクトの中では具体化されていく。最初学習の見通しをたてるときに「じゃあ,具体的にどうしていこうか」ということを子供たちと話していく。そういう中で藤原さんの言われたことは「発想」として持つことができるようになると思う。総合的な学習の時間というのはある意味学年をまたいでもいいと思うので,たとえば金井先生のコミセンの話は,来年の5年生もやって,先輩のやったことを見せることで,自分が作ったものと対比させ,もっと具体的にしなきゃいけないかなーと考えるようになったり,レベルアップをさせるようになると思う。

堀田:
藤原先生が子供に観点を与えようとしたワケは,子供に自己評価能力をつけさせたいと思って,やったんですよね。自分で自分の評価をしたいというのは,金井先生にもありますよね?その力はなぜ必要かですよね?

金井:
最終的には先生はいなくなっちゃう。自分ひとりで生きていく。指導していく人は消え去っていく中で,自分で生きていく上で,自分をよく知る力をもってほしい。

堀田:
今,自己評価という話がひとり歩きしている中で,子供に自己評価をさせるシーンをたまに見る。なぜそうするのか聞くと「教師はみてとれないから」とかいう話になる。國香さんは教師が見取る力を大事にしている。そこ発想が違うと思う。國香先生,教師は見とれますか?

國香:
えっと,見とれるかといえば,見ていないところは山ほどあって,ザルの穴のようです。ただ,先ほども金井先生が言われましたが,子供と教師が話し合うという過程が絶対大事で,そこですごく自分も子供を見取っていると思うし,子供も先生に言われて気づいていくのが多いなと思う。そういうところで教師は見とれる。

堀田:
そうすると「じゃあ話し合えばいい」とかなるんですが。何を話し合っているんですか?

國香:
話し合うことは色々あって,自分は次にどう動くか,次何をねらってやっていくか,ということを話し合うためにある。

堀田:
形としては話し合いなんですが,先生としては問いつめている,というと言葉は悪いですが,漠然と言っていることを具体的に言うとどうするの?ということを聞き返している。

國香:
子供はそれに答えながら,自分で意識している。

堀田:
そういう意味で,目標を明確化する。金井先生の「子供の目標を話し合っている」ところになる。木原先生ほかの実践とか,どうですかね?それとみとる話はどう関係ある?みとりやすくなる?これはほかの実践とかは?木原さん。

木原:
ねらいに関係するんですが,私がよく行っている岡山の小学校では,いくら話し合っても子供たちを見とれないことは出てくる。なぜなら,その段階の子供たちは社会参加や,社会貢献をめざしているから,そういうことは教師に見取りきれないところはある。学校外のNPOの方の方が先進的に,中核的にがんばっている。じゃあ,教師に見とれない部分を見取るようする環境設定,評価場面設定として働きかけているかもしれない。みとれるかといえば,そういうシーンを設定すればみとりきれないところもある。

堀田:
さっきの山脇先生の質問が,見とれるような評価項目を設定しなきゃならないってことかもしれないって話だと思ったんだけど…。

山脇:
私が思ったのは,活動評価とあるんですが。(…)作品を見る。やっている様子を観察する。自己評価も色を変えて,できたよってのと,できなかったよ,困ったよ,みたいな色ワケして壁面ポートフォリオをはらせた。そうするとその子がつまっている部分を支援してあげる。話を聞いてあげる。

堀田:
それはいいんだけど…できるかできないか判断できないので…そこはどうなの?

木原:
伝統的な評価観に基づけば,そこでやっていることが他に転移しなければならない。また,別のプロジェクト。たとえば22世紀になったときに自分たちの手で街を作るとかのプロジェクト。その際に今回やっていることの力が再現されるのか?。たとえばこの単元が終わった後「〜プロジェクトをしたためなさい」と,計画書を出させて,そこで今回やったようなことが出てくるか。

ただ,それは伝統的な評価方法に基づいているから。今,総合的な学習の時間では自分がやっていることを他の人が評価してくれるかどうか。僕は折衷主義者なので両方必要だと思う。

山脇:
特に情報教育の場合,スパイラルの繰り返し出てくる場面を想定しています。ひとつの取り組みがステップアップしていくようなイメージを考えていて,次に同じような場面が出てくることがある。そこでも同じような利用できたり,スキルを発揮できていればそのスキルは身に付いているんだなと判断する。ですから,この,単元だけでなくて,大きな流れを見たときにできるか・できないかを判断している。

堀田:
それは同じだよね?だから,次の場面で出てくるか確かめるためにも,今回の部分を書いている。結局ね,通知票の裏のところに道徳心とか基本的な生活習慣があるときAになったり,あるときCなったりする。それはどこで何を評価されているか分からない。そういう透明性が高くないものよりも,皆で決めた統一性のある目標を決めて,自分がどこにいるかみていく。たとえば,プロが見て「ああ,あいつはいいな」と言う大きなケタでやるのもある。僕も折衷主義者なのでどちらかに決めようとする人がいると対抗したくなる。問題はどっちの場面のときには,どっちがいいかな?とか。できるだけはっきりさせないとつかみようがない。そこの問題かなという気がして聞いていた。

それはたとえばレポートしたときに記述の方式の他に,あの今みたいなどちらかというと学校現場にべたべたといる僕らから見るのとは違う感じで居る山内先生は1.5mくらい離れて冷静に見ているんですね。実践報告でどうかわったかを教えて。あるいは現場に入って常々思っていることでもいい。

山内:
あの,話が方法論になるんですけれど,僕,今,一生懸命全然違う領域から来た大学院生になぜ教育研究をしなきゃいけないってことを説明している。なんで研究しなきゃならないの?ってのが,クリアーにならないと,方法論だけ説明しても仕方ない。

通常,現場の先生の堅気のスタイルは「僕こんなことやりました」っていう物語を語っているんですね。それが物語のまま昇華していくと,ものすごく天才的な先生は読んでブルブルふるえるような本も書けるわけですね。そうではなくて,もっと方法を規定することによって,普通の人でもある程度情報を共有して失敗を繰り返さない,と。50人集まったらその知恵を集めていくのが研究なんですよ。そのための文化が研究なんですよ。研究者が偉いから研究するのではなく,ある実践分野を高めるために研究がある。

一番根本的に難しいのは,自分は今まで研究してきた人の中でどういう位置にあるのかってのが研究です。それが研究と研究でないものを分かつ部分なんです。で,そのためには自分の前の研究者が何をしてきたかを調べるのが大事で,それをやらないと何十回,何百回と同じ間違いを繰り返す。意識の中にそういうのを持っているか,そうでないかが,研究とそうじゃないものの基準だと思う。それを意識するとここに集まってる40名が集まって,100名分くらいのパワーになる。それを意識しないと40名バラバラにやったらうまくいかない。普通の人がよりよく実践をやるための一番大きなポイントだと思う。

だから,研究としてお金がもらえる,説明可能にするのは,そのために説明可能にするんですね。今までやってきたことを乗り越えるために何か付加価値がついているのがポイントだと思うんですね。そういう意味で実践研究をするには,他の人が何をしているかを調べることを平行してやらなきゃならない。日本だけでなく,外国で何をやっているかも研究しなきゃいけない。しかし,実践をやっている人は暇がないので,研究者の仕事なんですが…。根本的なとこで,共有して問題を解決していく姿勢が大事なんじゃないかなという気がします。
堀田:
結局同じような実践とか,どう見てもだいぶ後ろにある実践が堂々と報告される理由は,他人の研究を読まずにひとりでやっているからです。だけど,前に書かれたものが,本当に次の人に伝わる形になっているか。僕はコンピュータ的にいえばプロトコルを決めることだと思う。それをやってみるために,メールで突然二人に発表しろ,と指名した。それ以上のことは言っていない。言っていない人に発表してもらって,研究仕立てにするにはどうするかの話に近くなってる。

本当は研究と修養する義務もあるんですが,学校によっては校長先生はクラスのことをやれと言うかもしれない。僕は一方で説得力のなさがそうさせてると思うんですね。情報教育をやっても,それが中に対して響いていないわけは,その人の実践が見える形で示されていないからだと思うんですね。だから僕は関わる人に学会発表してごらん,雑誌に書いてごらん,とか話すわけです。それは,そのプロセスを通して研究することの楽しさが分かっていくんですね。笹原先生,そういうエジキになってる第一人者としてどう?

笹原:
論文発表とかして感じていることをお話したいんですが,まず実践をやっているとたくさんのことを考えます。どういう課題を設定したらいいか?子供が課題として受け取るためにどう展開するか?ワークシートをどう作るか?だけどそれを研究にして報告するときは全部話をしようとすると伝わらないということを逆に感じます。

じゃ,どうしたらいいか?というのが私の課題で,今回はワークシートで話をしよう,今回は学習課程の構想の話をしようとか,どこを切り取って,あるいはどこを切り取らずに話すかを意識しています。

その結果,教科に関する学習の流れを考えるときも,うまく組み立てができるとか,子供たちの活動の様子をうまくとらえることができると分かってきました。それは組んでいる学年の先生にも説明できるし,学年全体の子供の力が笹原学級とかわらないところまで持ってこれるようになってきた。

問題は切り取って見せたことをどう見せるか?オリジナリティを,つまりどこをオリジナリティとして提供していくかが難しい。今日さきほど聞いた話は参考になりました。

堀田:
僕は二人の発表を聞いて,二人の先生の発表のウリはここですよね?と木原先生が言いましたが,それはたくさんの実践を知っている木原先生だから分かるんですよね。けっこう実践ってのはトータルで常にいっぱい考えているので,出すときに丸ごと出したがる風土がある。まるごと語らなければならないとどこかで思っている。

ビデオに録画し見るためにはビデオと同じ時間かかる。だけど,それは見れないよね。それと同じ。

80時間分もってこれないので,圧縮してみる。それでどこを圧縮するか。木原先生,明らかにこれダメじゃん。これいいじゃん,の違いは?

木原:
だから,研究仕立てっていっても色んな研究がある。山内先生はどちらかというと学会の中で実践的な研究を指向していったと思うし,実践研究のようにアカデミズムを指向せずに,実践のドロドロした部分もできれば一緒に伝えたいような,色々なパターンがあると思う。後者の方で話をすると,僕はやはり研究助成論文を見るときには,やはり見るのが全体を描けているかということですね。それは,山内先生の言った他者との違いとオリジナリティというよりは,たとえば,学校のカリキュラムの全体を語ってもらったものの中で,6年生の部分がどうなっているか。そのあたりがまず整理されるのが大事。学校の取り組み色々あるのを語ってもらい,その中で今の実践があるのか。それをまとめてもらえればいいと思う。そういうことがわかった中でここがあるというのが出ればいい。必要性ってのは場合によってだいぶ違うでしょうけれど,総合的な学習の時間の実践であれば絶対そこは欠かせないと思うんですよね。そうすると,やっぱり金井先生のは弱くなりますよね。しかし,全体の中で位置づいているもののほうが力がありますよね。次は,そうはいっても部分を語るとき,國香さんはうまくやったけど,長期間の展望でやってみると実践はかわっていくわけですね。変化が生じる。形がいいものはあるけれども,変化していくに決まっているわけです。いいスパイスとして教師も子供もこう変わった。という方が真実味がある。その辺も私は見ることを考えている。

堀田:
山内さんも色々審査しますよね?何を見てますか?先生方の報告を聞いたり読んだりするとき。

山内:
あのですねー,子供が見えるか,見えないか,です。それは木原先生は,「おまえは甘い」と言うかもしれませんが(笑)。やはり先生がやりたいことはあるわけで,それを書くのがうまいのは当たり前です。だけど,本当にAさんって子がかわってきたのかを示せるかが実践研究では大事。理屈ではこの理屈ではかわるかもしれないってのは分かる。だけど,本当にそうなったかはかわった事例を持ってくるしかない。前の実践で,ここまでやった。今度の実践でここまで出来た,とあると「なるほどな」と思う。ものすごく大きくて,綺麗なことが書いてあると,そこでクエスチョンが付いちゃう。実践研究は地べたに足がついていないとダメ。そういう意味では難しい言葉ではナラティブと言いますが,実践研究の場合は「語り的」な部分をどういうふうに上手に織り込んでいくか?研究的なフレームの中に。上手に織り込んでいくかはすごく大事だと思う。

僕も現実主義者なので,そこは両方折衷していく必要がある。だから,上手な研究的なフレームワークの中で,だけど子供たちも見えている。木原さんはどろどろした部分と言いましたが。そこの部分が乗ずに現れていることがすごく大事。

堀田:
学会や報告会で研究することが,たとえば,笹原さんが外でうまくはなせるようになると,中でもはなせるようになって,それで笹原さんを見る目が変わって,それで風通しがよくなるってのがあると思うんですね。実践現場すべてに行くには大変。だから,ある人を捕まえて,議論して,伝える。できたかどうかはとても評価できないけれど,手間もコストもかかる。そのような形で日本中の教師を変えることはできない。僕にはとてもできない。そうしたら一体どうしたらいいか?

僕が審査してるときは,ちゃんと日本語が書けているかで3分の1落ちますね。何をあなたはしたいか?というところでサッパリ分からない人もいる。そうしたら語りをどう入れてあるとか,研究方法はとか,学校の全体図とか,というレトリック。その前にまずそもそもあなたのやりたいことは何なのかを伝えているかを見ている。ぜひ心がけてほしい。

当然語り尽くせませんが,この後懇親会でいろんな時間を共有してほしい。実践者の二人と先生にメッセージをいただきたい。それが終わったらこの会は終わりたい。

山内:
あのー,さっきの話の続きに近いんですが,私あのずっとフィールドワークをして学校に通っていた。子供や先生の会話や行動を記録していた。すごく不思議というか思ったことは,私はさきほど語りがって話をしましたが,先生たち職員室ではすごくいい語りをしているんですよ。あの子はよくなった,とかね。だけどオフィシャルな場に出てくると,子供たちが生き生きとしている様子を方法論に基づいてはなせない。

それって,子供が廊下でワイワイガヤガヤ騒いでるんだけど,発表はできないという姿と一緒。筋を通して,なおかつ生き生きとした形はむずかしい。それは大人も子供も難しいんですよね。それがうまくできるようになると,子供に伝わると思う。情報教育の実践をやっている先生は,実践をしてみて,コミュニティで発表するのがよいことだと思う。

木原:
こういう日にこういう機会がもてることはないと思う。1月6日に何かやろうといっても普通は人は来ない。そう思うとみなさんはいい場を持っている。このような場を継続して持っていれば,お互いに不完全なものしかなくても,ここに書いてあることはすべて満たされていく。ときに遠くから人を招いたり,たずねていったりして他流試合をするとテンポが早くなると思う。


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