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学び続ける組織をつくれ・学習論と経営論の100年

 

中原
ここからは、経営の話でさっきとは違います。ここはさーっと流します。経営ってのはヒトの効率的な動かし方の学。何らかの意図で効率的な運営をしたい、と。意図があってヒトをどう動かすかというのが経営学。これもわずか100年の歴史しかない。100年前は産業革命が終わってから工業化が進んだ。今までのじいちゃん、とうちゃん、かあちゃんの労働形態が崩れた。工場にはたくさんのヒトがいて、リソースを出さないと扱うものが大規模。経営学が出てくる必然性が出てきた。

中原
経営は6つくらいに分かれます。科学的管理法、人間関係論、…。これは実は科学主義と人間主義のふりこで動いている。科学主義は、簡単にいうと、あるメソッドを開発して現場に適用すれば効率的なマネジメントが出来る、と。人間主義は、関係とか、数字や仮説にならないものが経営にとって重要だと考える人たち。それがふりこになってる。

堀田
たとえば人間の帰属意識を管理しようってのがあるよね。

中原
帰属意識がコントローラブルなら科学主義と言えるかもしれませんね。

中原
科学的管理法の話をします。1900年代の経営者はどんぶりピーポーだった、ということが、原点になります。何が問題か分からないけど、とりあえずどんどんやればできるだろう、と。マネジメントなき世界。そこにフレデリック・テイラーが出てきた。工場でアウトプットを出すときに科学的方法を使って生産法をはかったり、質の安定をはからなければいけない、と考えた。彼の考えた方法はストップウォッチをもって工場に入って、仕事の時間や配置を考えた。一番効率的なヒトやモノの配置を考えた。科学的管理法という話になります。まず理解する。理解した後に、複雑な組み合わせを用いて統制する。こういう方法のおかげで、工場生産量は飛躍的に高まった。それまでは仕入れ量が適当だったのが、予測をたてて動くようになった。ところが問題が出てきた。工場の中にはどんなヒトがいるのか、ということ。テイラーの話では、ヒトは歯車みたいなもの。ヒトは機械の一部品みたいなもので、仕事は個人でやればいいので、ヒトと話さなくてもいい。「やりゃーいいんでしょ、やれば」ということで仕事に対するモラルの低下や、他人への無関心が起きた。いわゆるモラルハザード。

中原
テイラー主義は問題はあったけれど、非常に有効だった。これを応用したのがフォード。T型フォード。フォードは、こう思った。労働者は、最大限の仕事発揮して、最大限の給料をもらうのに喜びを感じるのだ、と。彼は、何やったかというと科学的管理法をもとに、流れ作業と組み立てラインを考えた。今まではハンドルから椅子をつける、いろいろやるのを一人一人でやってた。それをヒトのやる業務を決めて、その業務を細かく分割して、車が流れていく組み立てラインを作った。当時T型フォードはものすごく売れて生産量があがった。ただ、同じ問題が出てきた。モラルハザード。これはチャップリンの有名な映画。モダン・タイムズ。これは「労働者は歯車なのか?」ということを皮肉った映画。労働者は尊厳というのかな、働くことに関する尊厳や人間的なものが失われてきたということです。

中原
科学的管理法やフォードシステムが確立する中で、オフィスワークも改善されてきた。それがいわゆる官僚制。市役所やそういうところで容易にみることができる。官僚制ってのは工業化するときにオフィスワークをどうすればいいかを考えた。それは4つくらいルールがある。1.厳密な階層化 2.非人間制 3.ルールとやったことはすべて文書にする 4.専門分業、と。これも問題があって、組織が硬直化する。要するにタコツボ化する。市役所で経験したこともあると思うけど、書類をどっちに出せばいいか分からないってのがある。そうするとたらい回し問題が出てくる。それはある役割にはある人というふうに割り振られている。義務が定義できない仕事はたらい回しになっちゃう。あと部署と部署に意思疎通がないので、全体のビジョンがなくなって暴走する。こういった問題もかかえているんだけど、官僚制は工業化を支える重要なオフィスの仕組みだった。

堀田
大きい省庁はそう。

中原
こういった科学的管理法が栄えていたのは1900年代前半。ちょっとこれやばいんじゃないのという反省とともに、人間主義にふれてきた。それは何かっていうと、工業化社会が進んで効率を重視してきた。見落としていたものがひとつあって、それは人間。メイヨーという人がいて、ホーソン実験を行った。それはホーソンというところにある工場で、何が生産性に影響しているかを調べた。空調の強さを変えたり、電気の強さを変えたりして、生産性が何であがるかを考えた。その結果、たとえば空調の強さだとか、光の強さはあまり生産性に関係しない、と。関係するのはモラルや士気。帰属意識や人間関係。これが有名なホーソン実験。この結果は科学的管理法にとってものすごい驚異。人間を歯車とみなして、意志や判断を無視して科学的に管理することをめざしてきた。合理経営とはげしく対立した。

中原
今いったようなことはここまできた。最初合理的経営と科学的管理法の話が出た。ここまで共通してきたことがある。それは組織をブラックボックスとみなしている、と。ホーソンは人間性が生産性に関係する。科学的管理法は配置の転換なんか最適化をめざした。これなんかさっきも聞いたような気がするんだけど、組織の中では何が起こっているかは明らかになっていない。そこで組織の中で何が起きているかに注目した人がいる。

中原
1940年代から50年代。組織は情報処理の機械だとみなした。たとえば堀田研究室という会社をみて、どんな情報が誰に伝えられてそれがどう処理されているのか、と。それを細かく調べれば組織の内部の情報処理を最適化することができる、と。なんか認知心理学と似ています。

中原
情報処理モデルってのは組織の中の情報がどういう風に流れるかを考えた。次にでてきたのは、戦略論。マイケル=ポータなんかが考えた、5つの力モデルっていうのがあります。あるものが売れるときにはその5つの要素を最適化すればよい、と。

中原
また、ゆりもどしが来た。組織文化論、と。組織の生産性を決めるのは組織文化なんだ、と。カイシャにはイメージあるでしょ。ソニーっぽいとか、IBMらしいとか、ね。静大にも静大生文化ってのがある。そのある組織の文化というのが組織の生産性にすごい影響を与えているんだよ、と考えた。だからエクセレントカンパニーに共有されている組織文化には、こういうのがあります、みたいなハナシになる。

中原
とにかくゆれゆれになって経営学は発展している。この揺れ動く理論の狭間で、何を信じたらいいか分からない中で象徴的な出来事が起きる。

中原
1980年代にアメリカは経済力が落ちて組織が窒息してきた。労働者の75%が自分の仕事が嫌いだ、と。ホワイトカラーが増えた。アメリカは組織の図体はでかいんだけど、新しい製品や知識が創造できないことが問題になった。で、リストラ、リストラクチャリングが出てきた。組織のキープロセスを明らかにして、キー以外のディビジョンはカットする、と。カットしていった組織や人員は子会社にうつすか、事業全体をアウトソーシングする、と。

中原
でも、その過程で、また問題が出てきた。組織の中で一番重要なものを残して、それ以外はカットする。そのときにカットしたのは人間だけじゃなく、人間がもってきている知識をカットしているということ。組織の中には暗黙知や文化のような人間がひとりずつ抱えているものがあって、それが組織の外に出て行った。せっかく今までためてきた企業のノウハウが外に出て行きます。コーポレート・アルツハイマー状態。そんなとき、ピーター・ドラッカーの知識社会、知識労働者、知識労働、というような用語が注目されます。彼は「これからは知識だ」と。組織をカットすることは知識を失ってることに気づいていない。組織の生産性を決めるのは組織だ、ということに気づき始めた。これからは、知識をつくる仕組みを作らなければいけないという話になってきた。

中原
で、1990年代、野中郁次郎先生が理論をつくります。この理論は、日本人がつくった経営論で一番有名じゃないでしょうか。さっきアメリカが1980年代にアメリカの調子が悪かったといったけど、そのとき日本は調子がよかった。そのときに野中さんは日本の企業にべったりはりついてフィールドワーク、調査してきた。そのとき、なんで日本の企業がうまくいっているか調べた。そのとき日本の企業は知識を生み出すことを大事にしてる、と。日本の企業はアメリカと違っていて、たとえばある事業を興すときにそれぞれの人々が専門化されていない。僕なんか研究始めるときに、いろんな部署の人をあつめて合宿する。自分のビジョンを説明する。そういう場の創造ができているのが日本の企業だっていうんです。知識創造を誘発する場が必要だっていうのが組織経営論なんです。

中原
いかがですか?、堀田先生

堀田
なんで日本から出てきたかっていうのが興味深い。日本だってテーラーの頃は科学的管理でQCをやってた。米国と同じ方向を歩んでたと思いきや、日本からこういうのが出てきたのは何なのかな?和をもってなんとかみたいなのがいいのかな。組織がドライじゃないからかな、とか思いながら聞いてた。

中原
知識創造経営の話は米国人には衝撃だった。同僚と酒を飲みにいく、合宿をするというのはありえないって言うんですよ。アメリカの企業は、専門職化している。日本は、その都度みんな学びながらやってるわけです。そこで出会った人と呑んだり、合宿して思いのたけをぶつけながら。プロジェクトX的なんですよね。

堀田
今度紅白もでるしね中島みゆき。僕、知識創造経営のSECIモデルっての。暗黙知と形式知を行き来するってのが面白い。語り尽くせないものと、記述できるものと二通りあったとするとそれが循環してるってのは面白い。参考になる。

中原
こうした感じでふれにふれてきたけど、企業で知識を作る場とつくらなければならないというところまできてる。そうすると知識って話になる。そうなるとさっきの学習の話とくっついてくる。

堀田
その場合の知識ってのは与えられる知識。創造される知識。

中原
野中先生は組織理論の認識転換を行った。人は他の人と知識を交換して創造する主体だってことを主張した。この人間観は学習論のとこで出てきた人間観に近い。最初は学習者を入れ物みたいにみてたけど、状況論では人は協働するモノと考えている。

堀田
学習と経営のところ以外も、こういうようなことって起こってるのかな?たとえばサイエンスの分野とか、いわゆる科学の研究とか。社会学の理論とか。経済学のモデルとか。考古学はどうよとか。

中原
少なくとも教育に関しては起こっている。かつての教育学は何をめざしたかというと、教育とは何かってことを教育論を論争してきた。そこがぶつっと切れて、教育って何よっていうより、教育ってどんなことをやっているのよという話にうつってきた。

堀田
ほかの業界もそうだとしたら世界的な動きなんだけど、教育と経営で似ているとすると、本質的にドメインが似てるんだよね。似てるとするとそれは意図が似ているとか、みんな帰属したいと思っているとか。

中原
教師も経営者も意図を持っているという点で似ていますよね。教師は学習者が賢くなってほしいと思っている。経営者は生産性があがってほしい、労働者に働いてほしいという意図がある。

堀田
だから意図がはっきりしてて、だからって100%コントローラブルではないというところが似ている。

中原
どっちも大揺れに揺れている。

堀田
人を相手にしているから。

中原
どっちもゆきずまっている感じがする。


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