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メディア・リテラシー教育を考えるミニ・フォーラム

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■フリー・ディスカッション

堀田
ありがとうございました。これから残り時間が40分くらい。少しフリーにディスカッションしていきたい。ちょっとだけ状況の整理を僕の立場からして,水越さんがプロジェクトまわしていますので,その立場からコメントをいただきます。さっき森野先生の発言の中に小学校5年生がメディアを教える最初のタイミングだ,とあります。まずメディア・リテラシーの教科はない。その中でコンピュータを使うとかいうのは小学校の低学年からできる。マスメディアがどういう仕組みかを学ぶ機会を考えるかというと,小学校5年生にマスメディアの勉強をするというのがある。それが教科の中で堂々とメディアについて勉強できるいいチャンスです。メディア・リテラシーの実践は5年生の実践例がいい。5年生が適しているというより社会科での紹介をする。

堀田
この学校は情報という教科を取り組んだ活動を小学校5年生からやっている学校。これは何をしているかというと,子どもたちは街のポスターを集めてきている。これはビールのポスター。ビールのポスターだからビールが出ている。ところがクーラーのポスターなのに,クーラーではなくてモーニング娘が出ている。子どもたちに「これ何のポスター?」って聞くと,「えーと,えーと,クーラー?」とこたえる。これはモーニング娘のさわやかさと,クーラーのさわやかさをあわせているんですが,ビールみたいにはパッと分からない。クーラーの風のさわやかさを表すために風を緑色にしてあるとかね。

このことを勉強した子どもたちは,自分たちがやっている福祉の取り組みをポスターにしている最中。している最中に今みたいな授業することで,自分たちのポスターにフィードバックしている。これはメディアの読み解きの学習と一緒に,彼らが表現する学習の中に取り組んでいる。批判だけの活動をしてもよくない。ソフィア先生の話を聞いていると,自分たちの見ているメディアと現実をうまく循環させているなと感じた。水越さんに今のことも含めて,アドバイスというか感想をいただく。

水越
水越でございます。森野先生とソフィア先生から報告があったわけです。僕の方としては,学会的に批評させていただくより,せっかくこういう機会を与えていただいたので,情報学部なり,浜松という地域でのメディア・リテラシー教育に関する話をさせていただきたい。

水越
森野先生からのご報告聞いて,すごく大事だなとジェンダーの問題について思った。先生ご自身おっしゃいましたが,メディア・リテラシーとか情報云々になると民族やエスにシティーや国の問題,地域性の問題といった文化的な問題,あるいは文化の政治とか,文化的イデオロギーの問題が抜け落ちてしまう傾向があると思う。僕たちはやっぱり,メディア・リテラシー,情報リテラシーを学ぶときに基本になるものとして文化的問題に取り組むことがあるんだということを改めて確認したい。

僕昨年同じようなシンポジウムを開いたときに,カナダのメディア・リテラシー教育をたちあげたバリー・ダンカンという方に来ていただいた。彼が,文化的な問題に対する意識の高まりが,学校の先生達のメディアリテラシー教育に対する意識の高まりと共にあったそうです。1980年代にあった。彼の言葉でいえば「カルチュラルスタディーズというのがメディア・リテラシー教育の空飛ぶ絨毯になってくれたんだよ」と。

議論してみたいのは,情報教育といった場合に得てしてこの手の議論が抜け落ちる場合が多い。これは最初に堀田さんがおっしゃったように,メディア・リテラシーがもっている文化的問題と情報教育の課題を結びつけなければならない,と。僕はそういうのを具体的にどうするか,道筋にはどんなことがあるか話してみたいと思った。たとえば,万民批判というのがある。情報教育でマイクロソフト批判はあるのか?ワードを使うけど,ワードがいかに使いにくいのか。メディア資本との関係がある。アメリカナイゼーションとしてのグローバリゼーションのひとつとかね徳島の一太郎がなぜマイクロソフトに負けたのか。

堀田
もっというと,大学の学内の文書はなぜこのソフトを使う,とかね。

水越
いまだになぜこの会社が多いか,とかね。こうしたことはこのことはきわめて文化的な問題だと思っています。

水越
情報教育とメディア・リテラシーなり文化的問題の接合が1点。もうひとつは,補足になりますが,台湾と日本ではまったくテレビの視聴環境や文化が違うというのをおさえる必要がある。台湾は世界の中でも最もケーブルテレビ環境が発達している国。台湾は4000万人の全体でそういう環境になっている。日曜の夜8時から「武蔵」を見るとかいうインテグレートされたテレビ文化とはかなり違うものとして台湾のテレビ文化がある。それは多様性を保証する面と,コンテンツの不足からくるスキャンだリズムの問題がある。それを前提とすると,ソフィアさんのお話はある意味でメディア・リテラシーというものを構築していく,台湾の中で切り開いていっている。「甘く見ないで」という番組や,地域の中での先生との活動。メディア・リテラシーは正解がない,長い戦いだ,と。

これは日本でもまったく同じに言えると思う。だとすると,浜松とか静岡でどういう土壌作りを進めるか。僕が今日来たのは,ソフィアさんの随行員として来たんだけど,堀田さんや内山さんをはじめ,教育や学びの場を大学と連携してやってる。こういうことを台湾から学びながらどのように土壌作りをしていくか。そのときに情報学部はどういう役割を果たすか。おそらく中期計画策定,概算要求,大事だと思います。情報学環は「高度な情報リテラシーの”素養”を身につけた…」とある。

森野先生が今回はこのテレビ局とやってみて失敗だったとおっしゃった。僕は必ずしも失敗だとはいえないと思う。ファーストステップである,と。僕らも民法を組んでいくつも失敗した。ジェンダーの部分は画面から切り落とされていましたが,僕は必ずしも局の人が技術的側面だけ出してんじゃないとも思う。塚田さんという方は3,4年前からメディア・リテラシーをやっている。このテレビ局は視聴率で苦しんでいると思う。ニュースの森は視聴率が低迷している。だけど,あのテレビ局の報道はエリートですから,報道の人間が子どもたちが作ったクリティカルシンキングの番組を取り上げるのは大変。だから当日の朝になってFAXが来たと思う。放送局における報道の現場は強ばっている。ある意味で先生方がやったのは一矢報いた,一本釘をさしたという部分がある。「なんでジェンダー取り上げたなかったのよ」といってみるのは,メディアを取り組むいい機会だと思います。局の人間は馬鹿ではないですから,積極的に言えば取り入れてくれると思います。なんだかんだいってテレビの存在は地域社会において大きいので,テレビを取り除いてやるのは,こちらで進めるときに長い目で見ると得策ではないと思う。ポジティブなクリティックを局とやったらできると思う。非常に興味深く思いました。情報教育と文化的問題をどうつなぐか。この地域でどういう芽がふいているか。

堀田
時間の関係があるので,今の水越さんの提案にしたがってディスカッションを進める。情報学部で行われている教育でメディア・リテラシーがどのくらいあるかといえば,ほとんどない。メディア・リテラシー的に見ると,ちょっとずついろんなことをやってるけど,学生の中でまだつながっていないかもしれない。浜松のコミュニティーの話はその後にどう進めていくか。

森野
文化的な問題。私があげたのはジェンダーの問題。介護の問題。やはり私が考えるメディア・リテラシーっていうのは,文化的社会的コンテキストから切り離されてはいけないと思う。テキストをクリティカルに読むのであれなんであれ,そこでは活動している人が社会の問題を見ている。それを何かメディアという特殊なモノとして扱って,社会的なものと切り離してしまったら意味がない。社会を知るためにはメディアを通ってくる情報がほとんどすべて。たとえば,現在のイラク問題はメディアを通じてしか知られない。メディアに関する報道をどう受け取るか。それは私たちがイラクに対してどういう姿勢をとっていくかにつながる。文化的問題とメディアを使うというのをどうするか。それから,批評するだけではダメだと思う。その後出てきた意見を,メディアは使えるものだから,メディアを使って発信していく。そのための技術を教えるのもメディア・リテラシーの大事な要素。技術を教えるのに特化している傾向がある。文化的なところの吟味がなされず,技術を教えるところに今の教育現場は傾いていると思う。技術を使って何を伝えるのか,自分の価値観,生き方,世界とどう関わっているかを子どもたちに分からせるのが,文化と技術が統合したメディア・リテラシーだと思います。

堀田
さらなる問題提起があったと思うんですが,大学の先生でいえばうちの学部の教育としてどうするか。小学校の先生もお見えになっているのでどうでしょうか。非常に難しいのは日本の教育では宗教教育も政治教育も禁止とある。一番最初に提案した,メディアを表現するのが社会とつながっているのを教えるのはいいんだけど,その背景を教えてしまうと禁止になる。

森野
難しいんですけれど,メディアはイデオロギーなんですよね。ジェンダーもイデオロギーなんですよね。それがドラえもんの中のステレオタイプはそこにはジェンダーのイデオロギーがあるから。ポリティカルという意味は政治的意味とはならないんだけど,社会と関係するのと無関係でメディア・リテラシーは進めていけない。なんでドラえもんにステレオタイプが出るかというと,それは「じゃあ君の家ではどうなってるの?」ということとつながって,子どもたちの日常のステレオタイプにつながってくる。それを排除してしまったところで,何を伝えられるのかなぁ,と。

堀田
ジェンダーに対する教育とか,とにかく教育としては非常に新しい波で教えることがいっぱいある。だけど教科として確立させることができないし,全体性があるので,そのひとつとして総合的な学習の時間を作ってやろうというのが今年度からの日本の状態。メディア・リテラシー教育を社会とつながったまま学ぶきっかけになると思う。小学校では失敗も含めて総合的な学習の時間の実践が繰り返されてきた。僕はこういう感性が中学生にフィットすると思うんだけど,現実のカリキュラムの中でやられている例は少ない。竹本先生は教育学部の附属小学校の先生で,メディア・リテラシー教育にも興味があって,そういう授業をされた。

竹本
今,ジェンダーとメディア・リテラシーということで話がありました。自分の考えでいくと,ジェンダーもメディア・リテラシーもトータルでとらえる必要があると思う。カリキュラムに位置づけるときに,ジェンダーも重い問題だと思う。ジェンダーの価値を読みとっていくためには,ジェンダーを中心にした授業の進め方をしていく必要がある。そうすると,メディア・リテラシーをどうやって入れていくかというと,今の自分の考えでは,ジェンダーという文脈を作って「こういう情報の読みとり方があるね」というのをポンと授業に入れてあげる。そういう授業のもっていきかたがいいと思う。総合的な学習の時間の単元の中にいっぱいの要素を詰め込むと,こどもたちの中に残らない。カリキュラム全体については森野先生はどんなお考えかな,と。メディア・リテラシーをどういう風にカリキュラムに位置づけていったらいいか。

森野
現行のカリキュラムの中で?理想型?

竹本
では,理想型で。

森野
私はメディア・リテラシーは特定の年代に限られているのではなくて,生涯必要な能力。ただ,年齢の各段階で習得してほしいメディア・リテラシーがある。小学校,中学校,高校で違う。私は現場の教師じゃないもんですから,小学校のどこでどういった力が必要かつめて考えたことはない。今回やるにあたっても,ジェンダーのステレオタイプをやったんですが,小学生を対象にしてメディア・リテラシーをやるときに何をポイントに持っていったらいいか。はっきり言ってよくわかってやったわけではない。小学校という現場で男らしさ,女らしさをクラスの中で押しつけられてくる。大人が決めつけている男らしさ,女らしさとは別に,女の子でも活発だったり,家庭もいろいろあって,専業主婦の家庭ばかりでもない。自分たちが身近に見ているテレビの世界が,自分たちの実際の世界と見比べておかしいね,と気づいてもらうのが第一歩だと思う。実現できなかったんですが,オルタナティブを作る,というのをやりたかった。自分たちがいいと思う別のストーリーを作る。しずかちゃんが主人公になったドラえもんを作って,といのをやらせたかった。ドラえもんの場合,男の子が中心になって,のび太は道具を使って物語りの中心になれる。しずかちゃんは物語の中心として活動できない。それを気づいてもらうために,しずかちゃんがドラえもんの道具を使ったストーリーを作ってほしかった。ただ,向こうの機器が興津の場合あんまりなくてああいう形になった。目的にしたのはもう一歩先,違ったものを自分たちで作る。小学校の段階だったら,どういう風にカリキュラムに位置づけるかといえば,身近に見ているテレビ番組の中で疑問を持つ,変だと思ったら子どもたちに作ってもらう。メディアに対して客観的にスタンスを取る,というのを小学生くらいにやってもらう。中学生になったら,性の問題が出てくる。特に高校生になるとその問題が大きくなる。性的な問題とか,自立していくこと,女性のキャリアー,男性のキャリアーみたいな生き方の問題を通じてオルタナティブを作る。子どもたちのそれぞれの成長段階にあわせてメディア・リテラシーを発展させていく。教科としてどこに発展していくかはよく考えていない。

堀田
それはたぶん僕の仕事で,文部科学省ではあまり認知されていない。子どもたちがHPや動画をパッと作れるようになって現場に入っていく。清水市にも2,3年後には入ります。そう考えると出来てしまう。出来るときにどうするか。ちょっと台湾側が質問あるそうなので,僕は逆にソフィアさんはカリキュラムはどう考えているかを聞いてみたい。


小学校で実践をなさったんですが,ドラえもんを使って分析した。それはなぜちびまるこを使わないか。ドラえもんという番組を選ぶのもジェンダー的な問題がある。ちびまるこを選んだらどうなるか。

森野
なんでドラえもんか。私が山梨先生と授業するきっかけになったのは,小学校の先生向けにWSをやった。そのときにドラえもんとクレヨンしんちゃんをやった。山梨さんはそのWSに出席していた先生。私は実践をしてくれる人をさがしていたので,山梨さんという方にやってもらった。ドラえもんはWSでやったことをクラスでやった。なぜちびまるこちゃんじゃないか。要するにオーディエンスの問題がある。ドラえもんは,男の子も女の子もだいたい見てます。ちびまるこちゃんはほとんど女の子しか見ていない。日本のアニメは男の子向け,女の子向けというディビジョンがある。やっぱり男の子向けは男の子が主人公。男の子向けのアニメは女の子も見る。たとえば,『ワンピース』は男の子も女の子も見ている。だけど『とっとこハム太郎』は女の子しか見ないんですね。そうするとテクストとして共有するのは難しい。

堀田
僕もそうだけど,教えたいことが森野さんでいうとジェンダーというのがあって,いい教材としてのドラえもん。いつもドラえもん見て,ドラえもんの中に教材としての価値があるんだと思う。


ジェンダーの問題にしろ,メディア・リテラシーの問題にしろ,私たちが世界を理解するには意味のネットワークがある。だから,どんな学科,学年でメディア・リテラシーを教えるにしても,先生がテレビを見るときの真理と再現の基準をもうけてはいけないと思う。メディア自体がメディアなりの意味を私たちに理解してもらおうとしている。だから,メディア・リテラシー教育のポイントになるのが,他人の意味のネットワークを理解する上で,自分なりの意味のネットワークを構成することです。もし,メディア・リテラシー教育と情報教育をつなぐとしたら,まずメディアの道具の利用と表現と評価というレベルに分けられると思う。メディア・リテラシーと教育と情報教育は同じものの両面と思って,あるいはお互いで補足できる概念だと思っています。

堀田
今ソフィアさんにおっしゃっていただいたことで,日本でも情報教育をやっている僕が,メディア・リテラシーやっている水越さんと同じグループに居たりするのは,お互いに補完しあってというか,関係しあってやっていこうということだと思う。日本も方向間違えないように,小学校や中学校のカリキュラムにどう入れていくかいろいろ動いている最中です。本当は情報学部の問題としてもあると思ってやったんですが,大学の先生に十分なご意見をいただく時間を取れなくて申し訳ありません。今日はこれで終わりますが,プレゼンテーションをいただいた森野先生ありがとうございました。ソフィアさんには大変お疲れのところご講演ありがとうございました。今の議論はきっかけで,これから僕らがいいカリキュラムや実践を作ることでお返ししたいと思います。

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