メディア・リテラシー教育 2003年度はどう取り組むか(その3)
←前のページから続く
あと子どもたちの気づきは、「このクーラーは、緑色の何かが出るんですか?」とか言っていましたね。「それは違うよ。」「じゃあこれは合成されているんだよね。」つまり写真で事実を出しているだけじゃなくて、実は「モー娘。」もクーラーの前に立っているんじゃなくて、写真を重ね合わせたんじゃないかとかね。つまり「これは現実ではない」ということに気づいていくんですね。現実ではないけれども、クーラーを売りたい人にとっては現実なんですよね。それで目を奪われる僕らも現実なんですよね。現実ではないということで、そういう意味で嘘か本当かと言うと、これは嘘なんですけど、そういう表現の技法まで使って、リアルな僕らの遡及力みたいなものをやっているということに気づく。
何でこんな事を気づかせるかというと、この子たちは実はポスターを作っているんです。自分たちのことをうまく伝えるポスターを作っている。自分たちの総合の活動をみんなに見せたい、分かって欲しい、保護者の人に分かって欲しい、地域の人に分かって欲しい、だからポスターを作っている。これが同時に走っているんですね。そんな中で取り立ててあの授業だったわけです。
先生たちはこれで気づいた子どもたち、まだ若干距離があります。自分たちがポスターを作っているということと、今のポスターがそうなっていたということの間には距離がありますけども、それを繋げる作業の授業なんです。「今、ポスターを分析した。ところでナントカ君たちが作ったこのポスターにはどんな工夫がありますか。」っていうことをその次の時間に分析した。そうすると、「字が大きい」とか「写真が大きい」とかそういう割と形式的な話から、「でも、本当はこのことが言いたいんだったら、この写真をバーンと前に出した方がいいんじゃないの。」とか、「伝えたいことをキャッチコピーにした方がいいんじゃないの」とか、これは全部「かいてき3まい」とかあの辺で学んだことなんですよね。つまり世の中のものの工夫、プロの工夫を元に、「僕らのポスターももうちょっと工夫すると、こんなふうにできるんじゃないの。」ということに持っていって、それを次のポスター作りの時に他の人からもらった意見を元に、再検討するわけですよね。これが、発信と受信の循環性をキープしている様子です。そして、「もっとこうしよう。ここを修正しよう」ということを、いきなり修正にかかるわけではなくて、「ここをこう修正したい、どうしてかって言うと………」みたいなことを付箋に書かせているんです。これはどういう意味があるかというと、いきなり修正しちゃうと、どうしてそう修正したか忘れていくんですよね。そうじゃなくて意図を持って発信するということをさせたい。「ここを大きくする。それはどうしてかっていうと、ここに目をひいて欲しいからだ。」意図がはっきりすると本当にそうなったかということを、いろんな人からまた次にフィードバックもらった時に、自分たちはこういう気持ちでこういうふうに表現したけれども、このことは伝わったとか、伝わらなかったとか、伝え方の技術、スキル、ノウハウといったものが子どもに身に付いていくわけです。従ってそんなに急には、どんどん直させない。
これは全10時間位かけて総合の中でやった実践事例ですけれども、この元吉原小学校というのは文部科学省の研究開発学校で、小学校で「情報科」を作る。中学校においても元吉原中学校が作ってそれを繋げる。「英会話科」というのを小学校で作る。中学校でも作る。そして繋げる。そういうことを取り組んできた、そういう意味では割と特殊な学校です。
でもここで問題になっていたのは、「情報科」といってもコンピュータの話ばかりだったんですね。そうじゃないんじゃないのと。「情報科」なんだから「コンピュータ科」じゃないんだから。「情報科」なんだから情報そのもののことをもっと扱うべきなんじゃないのと、僕が入っていろいろやっているうちに、先生方はこの辺に落ち着きました。でもこれコンピュータを使ってないですよね。あの一部を作る時はコンピュータ使っていますけど。少なくともこれは教室でやられている、一斉の話し合いの授業です。だけど、情報を扱っているし、極めて情報の表し方とか読み取り方とかの重要なところを扱っています。
コンピュータを使うのは、そういう情報を集めたり、うまく表したりするための道具として使うわけですよね。道具の機能だけを学習しても、包丁の仕組みだけを学習して包丁を使えないとか、ミシンのボビンがこうなっていることを知っているけどミシンは使わないとかということと似ちゃうんですよね。そうじゃなくてもっと生活力に持っていきたいわけです。そこのところを頑張った例だと思っていただければと思います。子どもたちはこの修正のところにかなり具体的に書いていますね。そしてそれが次の課題になっています。
ここの学校では同時にチャット体験をやらせているんですけど、これはクラスの中でやっています。限られた校内LANの中で最近思っていることを自由に二つ三つの掲示板の中から選んで入ってやる。その時に、「本名がいい?あだ名というか芸名がいい?」というと「芸名がいい」。「自分で決めた方がいい?先生が決めた方がいい?」というと「自分で決めた方がいい」と言ってやるんだけど、「まあちゃんって誰だよ」とかいう話になるわけですね。それも体験してから、「あの時まあちゃんっていう人はすごくまじめに書いているんだけど、毛虫さんていう人はいつもふざけてたけど、だいたい毛虫さんて誰なの?」「え、ナントカ君なの。何であんなにふざけるの。」「いや、ちょっと調子に乗っちゃった。」というような話をして、「サイバー空間というのはそういうことが起こりがちなんだよね」ということをやっている授業なんです。つまり「匿名性っていうのは怖いよね」ということと、「僕らは情報の発信に対して責任を持たなければいけないよね」ということ。この学習が何に効いてくるかというと、だから責任を持ってあのポスターを作るということ。「嘘は書いちゃいけないよね。」「本当なんだけど、伝えたいことを大きく書くんだよね。」「だけど嘘ではないんだよね。」というあたりがメディア・リテラシーに繋がっていく。この実践はメディア・リテラシーではないんだけれども、この実践のようなものがあるからメディア・リテラシーの実践が確固たるものになる。これが今日中学校のところで僕がコメントした、他のところで、どういうことがやられているかということと、取り立ててこの授業を行うということが、関係してくるというお話しです。
ちょうどこの授業の日はニックネームでやっていたんだけど、人のニックネームを使って入る子がいて、それがまた話をややこしくしたんですね。「ナントカちゃんていうのはナントカ君でしょ?」と言うと「いや、実は俺じゃないんだよ。」「えーっ。」みたいな。「実は僕がやりました。」みたいなね。「そういうことっていいのかな。」「面白いからいいんじゃないの。」「いや許可を取ればいいんじゃないの。」みたいな。これは著作権とか肖像権とかそっちに向かっていくわけですけどね。それとメディア・リテラシーと繋げて考えているという訳です。
話が逸れましたが、僕は情報教育の研究者なので、これは僕から見ると、情報教育の割と大事なところにメディア・リテラシー教育っていうのが横たわっているなと思っています。メディア・リテラシー教育の人も、ある一部のところで情報教育と接点を持っていると思ってくれています。それは何かというと、「情報教育っていうのはコンピュータを使う」みたいなことが、割と前に出てるんだけども「何で使うのかな」というと、「情報をうまく扱いたいから使う」。そしてそれが社会を変えてしまっていて、僕らの生活の中に入り込んでいくっていうことは、メディアと一緒なんですね。もっと言うとメディアの一部なんですね。そう考えた時に、「仕組み」という観点と「つきあい方」という観点で、情報教育もメディア・リテラシー教育も、僕は結構押さえられるんじゃないかなと思います。
僕がいる学部は「情報学部」であって「コンピュータ学部」ではありません。だからそういう意味で同じロジックがここにあります(図2参照)。つまり情報学部でネットワークの仕組みをいっぱいやっても、ネットワークのモラルがちゃんと身に付くのか、もっと言うとネットワークを使いこなすのか、というのは話が別なんですね。僕らは冷蔵庫を毎日使うけど、じゃあ冷蔵庫はどうして冷えるかということを、どういう仕組みになっているかということを知らなくても使いこなしている。例えば主婦にとって冷蔵庫って大事ですよね。まあ冷蔵庫リテラシーっていうのがあるとすると、それは何かっていうと冷蔵庫の仕組みを知っていることよりも、買い物した時にどの位日持ちするものはどうやってやっといて、そして晩ご飯を作ることとどう関係させて、うまく在庫処理していくかという、知恵みたいなものですよね。だから仕組みのことを学ぶというのは、それは知らないより知った方がいいんだけど、それは生活者としては本質ではないんですよ。メディアもそうで、メディアの仕組みとか陥りがちなことを指導することはいいんだけれども、生活とそこが結びつくようにしたい。
前にも話をしましたけど、携帯電話の話。学生の携帯のかけ方を見ていると、「もしもし、今いい?今どこ?」って言うんですけど、もし家の電話だったら、「今どこ?」「家に決まってるだろ。」って言われるわけで、携帯だから「今どこ?」「今いい?」という話になるわけですね。つまり電話のかけ方として、僕らが子どもの頃に、「堀田ですが、○○君いますか?」というようなマナーみたいなものを教わったんですが、今「ナントカさんいらっしゃいますか?」なんて携帯で言わないですよね。ナントカさんが出ているに決まってるんだから。だからマナーが無くなったわけではないんだけれども、マナーが変わっているんですよね。メディアが変わって、生活が変わって、様式が変わって、マナーが変わるということを、どう教えるかということですね。本質的なことは、テレビの操作法というのは学校では教えない。その位テレビは簡単です。もちろんいろんな機能がありますけど、簡単です。ビデオの録画の仕方も、留守録の仕方という単元はないですよね。でも留守録っていうのがどう便利で、テレビとつきあう上ではどうかということは、もしかしたら学習内容かもしれません。
僕らが学習内容にしていくのは、操作そのものよりも、むしろつきあい方なんですよね。コンピュータもこれからもっと家庭に普及して、もっと簡単になっていけば、たぶんそうなるでしょうしね。「インターネットで調べて偉いけども、インターネットだけで調べちゃだめだよ。」みたいなことをやっぱりちゃんと教えなければいけない。そうしないと、メディアに埋没してしまいます。そういう意味でインターネットは「ここをクリックすると………。これがURLで、………。」ということと、「インターネットからきた情報は、どの位信憑性があって、あなたが調べるべきは本当はこっちもあるんだよ」ということを教えることと、どっちが優先されるべきか。時間が十分あればどっちもやって欲しい。どっちかが分からなければどっちかが分からないかもしれない。そういうことを考えて欲しいと思うわけです。
次のページへ続く→
|