自分の教育実践を研究として成立させる方法について学ぶ会
トップ > 公開検討会1>公開検討会2>公開検討会3 公開検討会 3 白江 なぜ伝える力を鍛えたいと思ったか。前任校10年いたんですが,今年変わって5年生を担当した。発問しても反応が返ってきません。表情がタンパク。与えられたことはしっかりやっている。前任校は発問出すとぱっとかえってきた。それに慣れきった自分が居る。もっと主体的に関わっていけるように。 学習指導要領でいうと生きる力。自ら学び,自ら考える力。こういう力を身につけるためには自分から学年や学級の友達,地域や全校生徒に伝えないといけない。しっかりと聴かないといけない。そういう力がないことには,コミュニケーションが活発にならないし知識も豊富にならない。堀田先生も『学研NEW教育とコンピュータ』の10月号に書かれています。永野先生の目標リストにもある。表情や,話し方,内容などがある。 伝える力を鍛える場として何があるか。教科,総合,特別活動とあらゆる 領域がある。教科の中では指名の仕方やグループ学習のやり方がある。たとえば指名でも個別や列指名や,力がついてくると子供が自ら発言したりする。私が注目したのは毎日やる時間,ということで朝の時間に目をつけた。それは毎日できて,継続して出来るというのがポイント。 朝の会の流れとスピーチの概要について。朝の会がこういう形である。声を出す慣れというのがあります。学校に来て声を出す。子供たちは緊張感があるはずなので,いかにたくさん声を出させるようにするか。私のクラスの子供たちは教室に入って挨拶しません。そこをまず指導しました。「大人だって必ず挨拶するものだ,教室に入るときも挨拶せぇ」と。こういったことによって声を出す機会が増えた。 そこで朝の会を迎えるときにこういうことを入れてみた。今月の歌。健康観察。ここにも変なこだわりをもってやっています。たとえばどういうふうに やっているか。様子をお見せします。 #ビデオ視聴 堀田 白江 ,あとはだいたい終止符だろうという考えがあって「これで十分だろう」という思いがあった。ところが,あまり変わりませんでした。何が原因なのかな,というところで,自分自身戻ってみると回数が足りない。継続が足りない。クラス全体としてはスピーチして反応してるんだけど,いざ前に出て発表する 子は限られていて,経験が十分ではないことが分かった。朝の会で時間でやるなら,10秒で30人の子がスピーチすれば5,6分で発表できる。5秒だと足りない。10秒なら一応自分の思いを語ることができる。10秒スピーチにもいろいろあって,まずは照れないでやる,次は表情として笑顔を意識すると。次はテーマをかえていく。最初はテーマを制御していなかったんですが,順番に朝のテーマを変えるようにした。継続と刺激ですね。この10秒スピーチをこれからもやってみようと思っています。 具体的な方法を話していきます。自己紹介スピーチ。発表して教師はうなずきながら聴いてあげる。あとは拍手するだけ。「すごいね!すごいね!」というスピーチがある。 次に短いスピーチがある。1分間。鐘を鳴らしながら,何秒かを意識させます。聴いている方には必ず質問しなさいよ,と指導する。質問が20出たら黒板の隅に書いて意識させる。それもHPで紹介していきます。今日はこんな内容で,質問がいくつ出て,ということを公開していく。 新聞スピーチ。子供にとっては一見難しい話題。自分として意味の分かる言葉にして出す訓練。 デジカメスピーチ。よくある方法ですが,写真の撮り方や,撮る枚数や。こういったツールを使うとアイコンタクトが減るので,そこの指導。 笑えるスピーチ。全然笑えないスピーチになってしまいました。笑えないときにシーンとすると辛いので,最初から笑えなくても拍手するんだよ,ということを言います。私も辛かったんですが,めいいっぱい拍手するしかない。 これでいけると思ったんですが,だめだったので10秒スピーチをしました。 お約束ごととして拍手はスピーディーに5回。こういうスピード感が大事。「聞こえません」と言われたら最初からやり直し。WSは声の大きさ,速さ,内容といった観点で終わった後に反省。一番最初にやったときは,目当てのようなものが出てきました。目当てを言い出すと「今日国語をがんばります」と内容がないものになる。そうなると内容面の指導も入れたりしたい。あるいは聞き手に対して,聞き手が発表するところに意識がいくので,聞き手の様子を見ているかを教師はぶらぶら動きながらチェックしました。 堀田 白江 #ビデオ視聴 白江 #ビデオ視聴 白江
いくつかデータらしきものを取ってグラフにしましした。恥ずかしさに関するアンケートでは,恥ずかしくなくなるまでが1ヶ月くらい。 結論じゃないような結論ですが,継続でみんなの前でスピーチしていくことが重要だということです。テーマが毎日変わることによってより新鮮な話題を提供しようとするのが,楽しい話し合いの雰囲気になって上手に発表できる。 異なる学年の交流できるクラス。テレビ会議と交流校と10秒スピーチをする。校長や教頭に来てもらって10秒スピーチをするといった刺激を考えています。 堀田 木原 木原 中川 中村 金井 木原 金井 木原 実践はとてもいいけれど,結論があやしい。「スピーチの継続で伝える力が向上」とある。このケタなら当たり前です。交流学習をすればキーボード学習に対する意欲が高まる。当たり前ですね。調べる必要がない。もっとつっこんだことを3人ともやられている。白江先生のは僕だったらこう見る。『情報発信・伝達能力の育成に資する「訓練」カリキュラムの開発研究』と。業界の定例の用語を使ったらいい。白江先生の場合は,情報教育の訓練カリキュラムを開発しようとしている。訓練カリキュラムには「ある」仕掛けと構造がある,というのが最大の売り物だと思います。ただ継続ではなくて,いかに継続するかが白江先生の工夫だし,研究の価値だと思う。 論文評価の観点。研究を生み出すときのポイントを言いますと,一番大事なのは「問題提起の意義の確認」です。研究って自分だけじゃなくて,ほかの人にとっても価値がないといけない。実践としてやる価値はあっても,研究として展開する価値はない。実践理論の構築を目指した実践もある。学会という社会的コミュニティで発表する研究は,社会的ニーズに基づいたものじゃないといけない。白江先生がやったことに他の人が学べるところがないといけない。潜在的にはあるわけですね。ここが読み取れた人は,問題提起の意義について共感できる。だけど,これを伝えやすくするには隅からはっきりしないといけない。「何をやっているか」ということ。同士に対して何をやっているか伝えないといけない。同士たちの取り組みに対する共通性・了解性が必要。要するにここを狙ったときに,どんなデータをどんな形でとらなきゃいけないか,というのは定型があります。カリキュラム評価に関するデータをとらなきゃいけなかったのではないか,と。後で話します。 情報教育×カリキュラム開発,という分野があって,その人たちに語る。その中身をもっとアピールポイントでいうとこれです。「訓練の段階性・重層性」。矢印が三次元の,3つの談で並んだモデル図がありますね。ここが最大の「味わい」だと思うんですね。どんな訓練のための仕掛けであり工夫なのか。ただ続けても同じ効果出てきませんよ。それに至るまでに慣れる段階があるとか,道具を使うとか。そういったところが売り物になっているわけで,それがどうやって生まれたかを強調すればいいし,それが子供たちに何を及ぼしたかを見ればいい。トータルな図に表されているものを評価するためにどんなデータが必要だったか。 まとめます。私だったら白江さんが草稿をもってきたらこういう切り返しをします。「伝える力」は一朝一夕には育たない。それが揺らいだら先生のやっていることの価値がなくなる。訓練・継続のカリキュラムは必要だ,ということを示さないといけない。総合的な学習の時間で問題解決的な学習をして発表させるんだけど,それで伝える力がつけられていない,ということがデータ化されている,とか。あるいはそういうことを調べた人の研究をひっぱってきて自分がやっていることの足固めをする。白江先生は自分のクラスの現状は…と語りが始まっていますが,研究としては自分のやっていることが他の人に役立つ,というロジックが必要。 継続カリキュラムの段階・重層モデル。笑えるスピーチって学術の世界では使いませんね。もうちょっと化粧をほどこした言い方。より抽象的にして般化可能性をにおわす。10秒でなくてもいいんですよね。短いのであれば。ほかの人が読めるように。こういうのって実践が生まれてモデル化される場合と,モデル化を実践する場合があると思うんですが,抽象化された一般的な表現をする。そういう表現ができないといけないです。システムの世界では概念設計と言ったりします。 3つ目。朝の会の取り組みは総合的な学習の時間や国語や社会で行う情報の発信・伝達とは違うと言っている。これに則したデータが必要になる。国語と総合でどう違うかを子供に聴いてみるとか。もうちょっとひねって,SD法によってそれぞれの場面について「暖かい−冷たい」みたいにして,どっちよりかを判断させる。もうちょっと科学的に判断する。いずれにしてもカリキュラム評価しているのですから,自分が恥ずかしかったかどうかという意欲にとどまらず,それがもつ良さがほかのデータを比べて重要かもしれない。伝える力っていうのはこれだ,と定義しているんですが,それが最後の評価のデータはかぶっているところが少ない。レベル3で期待されたものにはもっと深いものがありますね。これは白江さんも反省してましたが,最後に出ているデータじゃちょっと表せないものになっている。それを評価しないといけないし,そこに子供たちの自己評価を持ち込むのはおかしい。演繹的に捕まっているんですから,当然第三者評価が必要。教師の評価はこれに準じますが,ほかの第三者の評価が必要です。 まとめれば,非常にいいことを潜在的にやっている。しかし,それをうまくまとめられていないということです。 堀田
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